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大正~昭和の旭川と酒蔵
大正期
大正2年の旭川の業種別生産の順位は、
1位 酒精
2位 清酒
3位 醤油
4位 味噌
5位 製材
明治44年の北海道清酒品評会において大谷酒造店市場の弐等(優等・壱等・弐等の順)が最高だったが、これに危機感を覚えた酒造業者は様々な努力で技術を高め、 大正4年の5月に大阪で開催された「全国酒類共進会」で大谷酒造店の「朝正宗」が、旭川勢で初の優等賞を受賞。その後は旭川の酒造業者が優秀な成績を残すようになり、旭川で造られる日本酒が全国的に高い評価を得るようになった。
生産量も飛躍的に増大し、大正13年の北海道における日本酒生産量である161,983石(一石は約180.39ℓ)のうち旭川の生産量は四分の一を超える42,328石占め、全道の王座につくことになる。
大正3年 | 神谷酒造㈱(後の合同酒精㈱)の赤レンガ塔が完成。 |
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大正11年 | 上川酒造組合が名寄税務署の開設により同地区所属の業者5名が分離する。 同時に旭川酒造組合と改称した。 |
大正13年 10月30日 |
合同酒精㈱が設立される。 |
昭和初期から戦時中まで
政府の企業合同の要望により、昭和3年、笠原(名)他四店がまとまって日本清酒(株)の設立に参加。
清酒は、米の凶作や戦時中の食料米の厳重な管理の元でも、兵士の士気の高揚を第一義とする戦時下にあっても補助材として、一般家庭の配給を極度に制限して軍陣へ、産業戦線へと供出された。
昭和17年5月13日に公布された企業整備令にもとづき、昭和19年に入り、旭川では4つの工場へ再編した旭川酒類工業(株)が設立されました。しかし、原料資材の逼迫により第一工場の岡田工場だけが操業して他の3工場は全休に追い込まれてしまった。
昭和3年 10月30日 |
日本清酒㈱が設立される。 |
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昭和19年 | 日本清酒㈱旭川工場が転廃に指定され、醤油醸造業「キッコーニホン」の製造が始まる。 |
昭和19年 9月8日 |
旭川酒類工業㈱が設立される。 |
戦時体制化・戦後の酒造場
第2次世界大戦(太平洋戦争)時には政府において多くの統制が行われた。昭和19年には旭川の酒造場が1箇所に統制され、野口醸造場にて生産を始めた。これが旭川酒類工業株式会社と呼ばれ、旭川で唯一清酒を生産していた。問屋の中でも、統制制度の中、配給の運営機関として「北海道酒類販売株式会社」が設立。昭和24年には小売業者母体の「北海道酒類商業協同連合会」が発足。問屋が大きな役割を果たしていく中で、酒造メーカーの製、販の分担化が明確となり、製造に専念することとなる。
昭和19年 | 旭川酒類工業株式会社が設立 |
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昭和20年 8月15日 |
第二次世界大戦終了 |
昭和24年 | 北海道酒類販売株式会社が設立 |
昭和24年 | 北海道酒類商業協同連合会が設立 |
昭和27年 | 丸井今井、大和屋商店、吉竹商事が公認される |
昭和27年 | 岡田商店公認される。 |
戦後の酒造場
やがて終戦を迎えると、旭川酒類工業(株)から独立して操業を再開し、昭和30年代には10業者(永山町を含む)となりました。 これが、戦後の旭川における酒造企業の数的なピークとなりました。
しかし、消費者の生活が欧米化して、ビールや洋酒の消費量が増え、清酒は低迷するようになり、昭和の後期にかけて多くの酒造企業が廃業し、 名を消していき平成23年9月末現在清酒造3場、地ビール工場1場となっています。
第1工場
【岡田工場】5条通15丁目 | 旭川酒類工業(株)として、戦中も生産を行う。 【昭和27年2月】旭川北の誉酒造(株)に名称変更する。 【昭和43年3月】北の誉酒造(株)旭川工場となる。 【昭和62年】廃業する。 |
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【大内酒造】春光町6区 | 【昭和31年】再開し、昭和47年まで製造を行い廃業。 |
【野崎酒造】4条通17丁目 | 【昭和29年】再開する。 【昭和37年】法人成し野崎酒造(株)となる。 【昭和45年}日本清酒(株)と合併し、昭和56年まで製造を行う。 |
【石崎酒造】1条通15丁目 | 【昭和26年10月】旭川酒類工業(株)から分離再開する。 【昭和30年】法人成し石崎酒造(株)となる。 【昭和41年】小檜山酒造(株)と合併により消滅する。 |
【宮田酒造】永山2条18丁目 | 【昭和24年】旭川酒類工業(株)から分離して登別酒造(株)と合併再開、翌25年また分離して宮田酒造店となる。 【昭和37年】旭川北の誉(株)と合併し消滅 |
第2工場
【小檜山酒造】宮下通り17丁目 (現 高砂酒造(株)) |
【昭和24年】旭川酒類工業(株)から分離し再開する。 【昭和28年】10月法人成し小檜山酒造(株)になる。 【昭和41年】石崎酒造(株)と合併し、高砂酒造(株)と社名を改める。 【昭和50年】辛口清酒「国士無双」が誕生。看板商品としてその名は一躍全国に広まり、大きな転機となりました。 【平成2年】アイスドームの中で造られる大吟醸酒「一夜雫」を世に送り出し、現在に至っている。 |
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【塩野谷酒造】大町1条3丁目 | 【昭和24年】再開
【昭和30年10月】法人成し塩野谷酒造(株)になる。 【昭和59年】廃業する。 |
第3工場
【世木澤酒造】3条通18丁目 | 【昭和24年】旭川酒類工業(株)から分離し、登鶴酒造(株)として再開する。 【昭和43年7月10日】旭川中税務署から旭川東税務署に管轄変更になる。 【昭和61年】廃業する。 |
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第4工場
【大谷酒造】6条6丁目 | 【昭和24年】旭川酒類工業(株)から分離して再開する。 【昭和45年】廃業する。 |
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一方休業場となっていた山崎酒造(現在の男山(株))
【山崎酒造】6条通7丁目 | 【昭和23年】操業を再開
【昭和27年10月】法人成し山崎酒造(株)となる。 【昭和43年】永山の現製造場に新社屋を建設する。同年、兵庫県伊丹の男山本家・木綿屋31代目当主から、その家印と「木綿屋」の称号を譲り受けます。 |
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【男山(株)】永山2条7丁目 | 【昭和47年】男山(株)に変更し現在に至る。平成23年現在、世界酒類コンクールで清酒「男山」が35年連続金賞を受賞中。 |
【合同酒精(株)】南4条20丁目 | 戦中もブタノール・イソオクタンなどの生産を行い、戦後も約1ヶ月半の休業を乗り越えて再開する。 【昭和41年】清酒の生産を開始し、平成4年に「大雪乃蔵」ブランドの清酒販売を始めました。 【平成10年】地酒蔵「(株)大雪乃蔵」を設立し、製造・販売・飲食機能を同一建物に組み込んだ地酒蔵として営業中である。 【平成15年】オエノンホールディングス傘下の企業と改組し現在に至る。 |
地ビールの誕生
さらに、平成6年4月の酒税法改正により全国で小口醸造ビール(いわゆる「地ビール」)が誕生し旭川市内にも平成8年に地ビールが誕生しました。
【大雪地ビール(株)】宮下通11丁目 | 【平成8年】旭川駅付近のレンガ倉庫を利用して「大雪地ビール館」が出来ました。 製造・販売・飲食機能を同一建物に組み込んだ地ビール館として営業中です。 「大雪ピルスナー」、「ケラピルカ」の名称のビールの他、発泡酒も味わうことが出来ます。 |
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地酒フェアにて講演いただく眞﨑先生の著書が、「北海道大学学術成果コレクションHUSCAP」に入り、ネットでも読めるようになりました!
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